「古き良き日本人の残照」笠智衆




令和に入り、渡哲也と田中邦衛が泉下に旅立った。
相次ぐ昭和の名優たちの訃報に寂しさを隠せない。

これまでの名優たちの逝去にあたり、最も哀しかったのは誰だったかと、ふと思う。
渥美清、高倉健、菅原文太など、思い出すと枚挙に暇がない。
どの俳優も心に残る名演技が偲ばれる。

だが、私にとって“最も”という注釈が付くならば、この人を置いて他にいないだろう。
それは、笠智衆である。

笠さんの思い出

浪人時代、朝方に友人からの電話で知った訃報の知らせ。
寝ぼけまなこが一瞬にして吹き飛び、しばらく呆然としていたことを思い出す。
その後、追悼番組で流れていた「今朝の秋」を眺めていた。
老境に達してからは珍しく主役を務めた懐かしいドラマを鑑賞し、改めて笠さんの魅力にしみじみと思いを馳せる。

決して派手さはなく、華があるとは言い難い。
そして、訥々とした語り口からは名演技という感じも受けない。
だが、人柄そのままの穏やかな表情と柔らかな物腰。
一切の力みがなく、存在そのものが自然体の極致ともいうべき佇まい。
喩えるならば、水墨画や枯山水のような日本人の琴線に触れる枯淡の味わいというべきか。


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巨匠・小津安二郎に見出された笠智衆は、戦後日本の変わりゆく家族の姿を主役として演じ、映画史にその名を刻む。
だが、私は齢を重ねていくにつれ、御仏のような表情になった笠智衆が好きなのだ。
「男はつらいよ」で演じた御前様は、まさに真骨頂といえるだろう。

そもそも、こうした笠智衆の源泉とは一体なんなのだろう。
私が思うに、それは“無欲”なのではないか。

人間というものは、やれ金が欲しい、女が欲しい、地位が、名誉が、肩書が…と、欲望の塊である。
もちろん、それが活力となり、モチベーションにもなるだろう。
しかし、その欲が人間の心を醜くし、醜悪な心の在り様が写し鏡のように表情やしぐさに表れる。
翻って、笠さんには全くそうした雰囲気を感じない。

それは、若かりし頃から一貫して変わらない。
松竹映画の俳優募集に合格するも、なかなか芽が出ずに大部屋俳優として歳月だけが過ぎていく。
周りの俳優仲間が次々と辞めていく中、小津監督の目に留まるまで、笠さんは10年以上も下積み生活を送った。
さぞや苦しい時代だったかと思いきや、笠さんに全く焦りはなく、むしろ生涯の伴侶はなみさんと出会うなど、とても楽しかったという。

私はこのエピソードを聞いて、森鷗外の「高瀬舟」を思い出す。
人の欲望には限りがない。
一両欲しいと願っていたのに、いざ手にすると更に十両欲しくなる。
ところが、作中の主人公は無欲で足ることを知る人物だった。

まさしく、笠智衆は「高瀬舟」の主人公と同様に、足ることを知っていたのではないか。
思えば、笠さんはいつも淡々としており、自然体であった。
きっと雨の日も風の日も、お金がなくとも、あるがままを受け入れて、毎日を穏やかに過ごしていたのだろう。

そんな笠さんも、明治の男ならではの強い矜持を持っていた。
演技とはいえ、人前で泣くことを頑なに拒絶したのである。

それは映画「晩春」のラストシーン。
妻を亡くした周吉は、最愛の一人娘を嫁に出す。
小津安二郎の構想では、林檎の皮を剥き終わった周吉が寂しさのあまり慟哭するというものだった。
ところが、その演技指導を受けた笠智衆は、「それだけはできません」と断りを入れたのだ。

笠智衆にとって小津安二郎は、誰よりも敬愛する恩師である。
これまでも、その後も、小津監督に意見することなど唯の一度も無かった。

こうした笠智衆の俳優としての来し方を熟知していた小津安二郎は、その言葉を聞くと黙ってラストシーンを変更する。
笠智衆の気骨の人としての一面とふたりの絆の深さ。
そんなことを感じさせるエピソードである。

まとめ

プラザ合意以降、バブルの喧騒に浮かれ拝金主義に染まりゆく日本人を目の当たりにし、ため息を禁じ得なかった山田洋次の言葉ほど、笠智衆を的確に言い表したものはないだろう。
「戦後、焼野原になった日本が目覚ましい高度経済成長を遂げ、たしかに日本人は豊かになった。しかし、昨今頻繁に起きる凶悪犯罪やバブル経済に浮かれる日本人を見るたびに、日本人は本当に善良なのか…という疑問を抱いていた。そんな時、ふと隣にいる笠さんを見ると、あ~やっぱり日本人は善良なんだとホッとさせてくれる…そんな存在でした」

私はなぜか思い出す。
日本庭園を望む縁側で和服に身を包み、凛とした姿で佇む笠智衆の在りし日を。
その表情はいつものように穏やかで、雲ひとつない空を眺めてる。
見つめる眼差しも、その空と同じくどこまでも澄み切っていた。
まるで、笠さんの心のように。 

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