今回紹介するのは、女子フィギュアスケートのミシェル・クワンの名言である。
それは、いずれもオリンピックにまつわるものである。
そして、それは決して順風満帆な状況ではなく、本来ならば、ひとり悲しみに身を投じたくなるような場面で紡がれた言葉であった。
ミシェル・クワンとは
ミシェル・クワンは1980年7月7日にアメリカで生まれた。
世界選手権で5回優勝するなど、1990年代半ば~2000年代前半にかけてトップスケーターとして活躍する。
だが、オリンピックの金メダルだけは手が届かなかった。
あらゆる演技をクリーンにこなすクワンだが、特に豊かな表現力には定評があり、芸術点で満点を獲得することもあった。
中でも、スパイラルは特に高い評価を受ける。
クワンのスパイラルはリンクを目一杯に使いながらスピードに乗って滑走し、観る者全てを幻想的な世界に誘う、優雅さと伸びやかさを兼ね備えたものであった。
また、当時としては珍しく、スパイラルの際にS字状に滑っていった。
これは、高いスケーティング技術に裏打ちされたスムーズなチェンジエッジを得意とする、クワンならではのものといえるだろう。
名言
①「私は金メダルを失ったのではない。銀メダルを手に入れたのです」
1998年、初のオリンピック出場を果たしたクワンは、すでに世界選手権とグランプリファイナルを戴冠しており、残されたタイトルはオリンピックだけであった。
そんな女王クワンの前に彗星の如く現れたのが、二つ年下のタラ・リピンスキーである。
オリンピックイヤー前年に世界選手権とグランプリファイナルを制覇し、優勝候補に躍り出た。
だが、五輪直前の全米選手権ではクワンが雪辱を果たしており、金メダルの行方は全く予断を許さない。
芸術的な演技を特徴とするクワンに対し、リピンスキーは高難度のコンビネーションジャンプを得意とし、ふたりの持ち味が存分に発揮された戦いとなる。
結果は、ショートを2位でスタートしたリピンスキーがフリーで逆転し、史上最年少の15歳8ヶ月で金メダルを獲得する。
僅差で敗れたミシェル・クワンの失意は、いかばかりであったことだろう。
案の定、試合後のインタビューでは、金メダルを取れなかったことに質問が集中する。
質問の一つひとつに真摯に答えていたミシェル・クワンは言った。
「私は金メダルを失ったのではない。銀メダルを手に入れたのです」
当時、クワンはまだ17歳であった。
いくら世界の檜舞台に立つリンクの女王とはいえ、年齢的には高校2年生の少女である。
しかも、オリンピックで敗れた直後のインタビューなのだ。
数々の栄冠を掌中に収めてきたクワンにとっては、金メダルしか価値がなかったことだろう。
にもかかわらず、これほどまでの知性と品性を感じさせ、メダルを取ることが出来なかった他のフィギュアスケーターたちをも慮ったコメントを残すとは…。
“素晴らしき敗者”ミシェル・クワンには、称賛の言葉しか見つからない。
②「私はオリンピックで金メダルを取ることが夢だった。
夢を掴むのがスポーツならば、夢に届かないのもまたスポーツ。
でも、夢を掴むために精一杯努力することこそがスポーツなのだ。
私は今まで精一杯努力した。だから、夢を掴めなくても悔いはない」
1998年の長野オリンピックでは銀、2002年のソルトレークでは銅メダルと、どうしてもオリンピックの金メダルには手が届かなかったクワン。
そんな彼女が、最後のオリンピックとして挑んだのが、2006年トリノで開催された大会だった。
ところが、アクシデントが襲う。
練習中に怪我が悪化したため、直前になって出場を断念したのだ。
そして、その記者会見で語ったのが標題の言葉である。
クワンにとってオリンピックの金メダルだけが、フィギュアスケーターとして唯一手にしていない栄誉だった。
スケート人生の集大成として臨むべく、並々ならぬ覚悟を秘めていたことだろう。
それが…戦って敗れるならまだしも、試合にすら出られなかったのである。
心中は察するに余りある。
私は、そんな中でも素晴らしき言葉を紡ぐミシェル・クワンの姿に、画面が滲んで見えなくなる。
人はつらい時、苦しみに喘ぐ時、絶望の淵に沈んだ時こそ、真価が試される。
ミシェル・クワンは、最後までミシェル・クワンらしく競技生活を全うした。
まとめ
女子フィギュアスケートの長い歴史の中で、未だに多くの人々から最も心に残る選手といわれるミシェル・クワン。
それは、彼女自身の魂が美しく、その美しい魂で演技したからにほかならない。
また、「ミス・パーフェクト」とも謳われ、己に厳しく、他人に優しく接した姿は世界中のフィギュアスケーターから尊敬の眼差しを送られた。
“心で滑る銀盤の女王”ミシェル・クワン。
優雅で観る者の心震わす演技は、まさしく氷上の華だった。