「ライバル対決」北の湖vs輪島 ~輪湖時代を築いた名横綱~





私が物心ついた頃、土俵に君臨していたのが北の湖である。
「憎らしいほど強い」といわれた北の湖は、貴ノ花や若乃花、千代の富士などのスター力士の前に立ちはだかる大きな壁だった。

このようなこともあり、ヒール役に回ることの多かった北の湖だが、幼い私は不思議なほどに惹かれていく。
最初は高見山がお気に入りだったと記憶しているが、気が付くとすっかり北の湖のファンになっていた。

そんな北の湖のライバルとして、覇権を争ったのが横綱輪島である。
土俵上で鎬を削り、「輪湖時代」を築いたライバル・北の湖と輪島に迫る。


北の湖敏満 追悼号 2016年 01 月号 [雑誌]: 相撲 増刊

贅沢な大相撲中継

当時の相撲界は北の湖だけでなく、個性豊かな力士たちが土俵を盛り上げた。

横綱にはライバル輪島や甘いマスクで世の女性を騒がした二代目若乃花がおり、大関陣も“角界のプリンス”貴ノ花、“相撲博士”旭國、誠実に土俵を務めあげた魁傑、後に横綱昇進を果たす三重ノ海など、多士済々の面々が活躍した。
また、関脇以下の力士もハワイ出身の人気者・高見山、がぶり寄りの荒勢、“業師”鷲羽山、強烈なぶちかましの“デゴイチ”こと黒姫山、突き押し相撲の富士櫻と麒麟児など枚挙に暇がない。

また、名解説者として名を馳せた玉の海梅吉や神風正一が、味のある語り口でお茶の間の相撲ファンを魅了した。
北出清五郎・杉山邦博らの名実況に合わせ、多彩な技の攻防をはじめとする大相撲の醍醐味を余すところなく伝えてくれたのが両解説者なのである。

往時を振り返ると、どこを切り取っても役者揃いという、何とも贅沢な大相撲中継であった。



北の湖敏満とは

北の湖敏満は第55代横綱として長らく角界を背負い、幕内通算24回の優勝を飾った昭和の大横綱である。
子ども時代から体が大きく、抜群の運動神経を誇っていたため、“北の怪童”と呼ばれた。

角界に入門後、十両、幕内、三役昇進と次々に史上最年少記録を打ち立てていく。
これらの記録は後に貴乃花光司に破られたが、21歳2ヶ月での横綱昇進は未だ破られぬ不滅の大記録である。

全盛期、160㎏を超える体格を誇った北の湖だが、ただの巨漢力士ではない。
「組んで良し 離れて良し」と称されたように、四つ相撲でも押し相撲でも取れる万能型力士であった。
左四つで右上手を引くと十分であり、馬力を生かした寄り、強烈な上手投げ、大きな腹に乗せた吊りで他の力士を圧倒する。
その巨体からは想像できない俊敏さも兼ね備え、巻き替えの速さは角界有数だった。

輪島大士とは

輪島は日大相撲部時代、数々のタイトルを獲得し、学生横綱の座にもついた。
昭和45年初場所に幕下付け出しで初土俵を踏んでから、わずか1年で幕内入幕を果たすなど、異例のスピード出世を遂げていく。
昭和47年9月場所で大関に、昭和48年5月場所には横綱に昇進する。
こうして初土俵からたった3年半で、輪島は角界の頂点に立ったのだ。

輪島は記録的なスピード出世を見ても分かるように相撲の天才であった。
強靭な足腰に加え、強烈無比な左下手投げを得意とし、“黄金の左”と畏怖される。
従来の相撲界では、下手からの技を得意とする力士は大成しないと言われていたのだが、天才・輪島は例外だった。

当時の国技館が蔵前にあったため、“蔵前の星”と呼ばれたのも納得である。

対照的な両横綱

この両横綱は、何から何まで対照的だった。

身長179㎝体重165㎏であんこ型の北の湖と、身長184㎝体重130㎏前後でソップ型の輪島。
稽古に邁進し土俵に人生を賭けた北の湖と、夜の街を豪遊し派手な言動で世間を賑わせた輪島。
ともに左四つだが、右上手を引いて十分の北の湖に対し、右からおっつけて左下手を引いて力が出る輪島。
そして、引退後は相撲協会の柱石として角界の屋台骨を支えた北の湖と、多額の借金を抱え継承した花籠部屋の親方を廃業した輪島。

土俵生活のみならず、人生全てで真逆ともいえる生き方をした“昭和の名横綱”のふたりだった。

ライバル対決

輪湖時代を築いた両横綱だが、北の湖は輪島よりも5歳年下であり、対戦成績も横綱に昇進するまでは3勝9敗と大きく負け越していた。

中でも、北の湖最大の屈辱は昭和49年7月場所で逆転優勝を許したことである。
14日目を終えた時点で、北の湖が13勝1敗、輪島が12勝2敗の星であった。
千秋楽結びの一番、北の湖が勝てば文句なく優勝、輪島が勝てば優勝決定戦に持ち込まれる。
特に、北の湖にとっては横綱昇進がかかった大一番であり、是が非でも勝ちたいところだろう。
立ち合いから北の湖が右上手を取り、輪島も左下手を引くお互い十分な態勢になる。
上手を引きつけて前に出る北の湖を、輪島は“黄金の左”からの下手投げで切って捨てた。

これで星が並び、優勝決定戦を迎える両雄。
この一番も、巻き替えの応酬を含む激しい攻防の末、北の湖が右上手を取って寄り立てる。
輪島は土俵際まで追い込まれたが、“伝家の宝刀”左下手投げが一閃すると、またもや北の湖は土俵下に投げ捨てられてしまう。
まるでリプレイを見るような決まり手。

結局、場所後に横綱昇進を決めた北の湖だが、その後も輪島は大きな壁となる。
どうしても“黄金の左”から繰り出される下手投げに揺さぶられ、苦戦を強いられる北の湖。
なぜ、北の湖は何度も同じ技を食ったのだろうか。
それは、輪島は左が強いのではなく右が強かったからだ。
北の湖と輪島の対戦は、それこそ毎場所のように同じ態勢になる。
両者得意の左四つに組み、北の湖が右上手を取ると、輪島が左下手を引き半身になって右から左腕を絞り上げる。
すると、輪島の強烈な絞りにより、北の湖の巨体が浮き上がってしまうのだ。

その無理な態勢のまま、慌て癖のある北の湖は強引に勝負に出て、輪島の“伝家の宝刀”の餌食になっていた。

そんな中、北の湖は輪島攻略の糸口を見出していく。
分が悪かった時代、北の湖は左下手を引かずに攻めていた。
それを改め、左下手を引くまで辛抱し、持久戦に持ち込む戦略を取り始めたのである。
体力に自信がある北の湖は、右上手を引きつけながら輪島に体重をかけ、相手の体力を消耗させる。
徐々に輪島の顎が上がり、絞りが弱くなったところで左下手を引き、がっぷり四つに組んでから勝負に出た。
胸が合ってしまえば、体力に勝る北の湖が圧倒的に有利なのである。

それを物語っているのが昭和52年以降、両者の対戦では3度水入りになっており、いずれも北の湖が勝利を収めている。
昭和53年になると、北の湖が全盛期を迎えたこともあり、完全に両者の力関係が逆転した。
一時は6勝16敗と大きく水を開けられた対戦成績は、最終的に北の湖21勝、輪島23勝で終わる。

昭和50年代前半、毎場所のように千秋楽まで優勝争いをした北の湖と輪島。
両者による千秋楽結びの一番は実に22回を数え、昭和50年9月場所~昭和53年1月場所までの15場所連続は史上1位の記録である。
その時代、いかに両横綱の実力が突出していたかが分かるだろう。

まとめ

2015年11月20日、日本相撲協会理事長・北の湖敏満は直腸がんのため逝去した。
62歳という若すぎる死であった。

北の湖の訃報に際し、現役時代のライバル輪島がコメントを文書で残した。
咽頭がんの手術の影響により、声を出せなかったためである。

「とても驚いた。お互い病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」

そして、最後にこう結ぶ。

「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね…お疲れ様と言いたい」

3年後の2018年10月8日、輪島も70歳で泉下の人なる。

ふたりは引退後にはあまり交流がなかったが、偶然再会する。
そして旧交を温めた後、北の湖は毎場所欠かさず、輪島のもとに番付表を送るようになる。
義理固い、北の湖らしいエピソードである。

北の湖の逝去にあたり、輪湖時代を築いたふたりの力士の対戦を思い出す。
北の湖と輪島の取り組みは、いつも手に汗握る熱戦であった。
簡単に決着がつくことなど皆無な、これぞまさに横綱同士の力相撲であった。

昭和は遠くなりにけり。
だが、北の湖と輪島が意地と誇りを賭け、土俵上で繰り広げた戦いの記憶は大相撲ある限り、消え去ることはないだろう。

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