「憂国の士」野中広務 ~弱者への真摯な想い~ 下編





「影の総理」「政界の狙撃手」と呼ばれた剛腕政治家・野中広務。

本稿では、そんな野中の弱者に向けた眼差しや、義理人情に厚い人物像に迫っていく。

古賀誠の実父 慰霊の旅

2003年2月、野中広務は自民党幹事長などを務めた古賀誠とともに、フィリピン・レイテ島に赴いた。
先の大戦において、この地で戦死した古賀の父を悼むためである。

2月とはいえ熱帯ならではの蒸し暑さの中、バスをチャーターして山間部へ向かい、さらにそこから山道を歩いていくと深い森がどこまでも広がっている。
この場所で御霊が眠っていた。

戦後60年近く経つが、古賀にとって初めての慰霊の旅だった。
父が戦死した当時、古賀はまだ4歳であり、ぬくもりも面影も記憶にない。
「父の魂と邂逅したとき、自分はどんな思いを抱くのだろうか…」
そんな不安もあり、歳月だけがいたずらに過ぎていた。

あるとき、古賀は野中に胸の内を語る。
すると、野中は古賀に言った。

「なんで行かないんだ。それは親不孝だ。お父さんの魂を迎えに行かなくちゃ。ひとりで行くのをためらうなら、俺も一緒に行くから…」

こうして、実現したのが今回の旅だった。

森の中の平らな場所に簡素な祭壇をつくり、父が好きだったお供えと一緒に、母親の遺影と今回は同行できなかった姉の写真を飾る。
そして、野中と古賀は心を込めて手を合わせた。
すると、晴れ渡っていた空が急に暗くなり、スコールが降り出した。

「お父さんの涙雨だ。やっと、迎えに来てくれたと喜んでいる」

野中の言葉に、古賀は涙が止まらない。

戦争の記憶を語り継いでいくこと。
そして、二度と戦争の愚を繰り返さないこと。
その信念を終生貫いた野中広務らしいエピソードである。


「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理 (講談社現代新書)


国旗国歌法の制定

野中が官房長官を務めた小渕内閣では様々な法案を可決した。
その中で、野中にとって思い出深いのが「国旗国歌法」の制定である。

野中は京都で地方政治に携わっていた時から、この問題の複雑さを痛感していた。
先の大戦で“日の丸”“君が代”の御旗のもと、多くの国民が命を失い、国土も甚大なダメージを受けた。
そうした苦い記憶が残る中、教職員組合は“日の丸”“君が代”を教育現場に持ち込むことに拒否反応を示していたのである。

このデリケートな問題に踏み込み、法制化を試みたのが野中官房長官であった。
それは、もう二度と教育現場で悲劇を繰り返さないためである。

1999年の卒業式前日、広島県立世羅高校の石川敏浩校長が「何が正しいのか分からない」というメモを残し自裁した。
教育委員会からは“日の丸”“君が代”の教育現場への定着を命じられ、教職員組合からは突き上げをくらい、板挟みになった末の悲劇だった。

元々、国旗掲揚と国歌斉唱には法的根拠が無かったため、国として“日の丸”を国旗、“君が代”を国歌として正式に認めたのである。
そこに至るまでに、予想通り様々な軋轢が生じた。

まずは、予算委員会で「国旗国歌の法制化は考えていない」と答弁したばかりの小渕首相を「人の命には代えられない」と説得する。
そして、連立政権を組む公明党は最後まで「国旗はいいが、国歌は難しい」と難色を示していた。
だが、野中は不退転の覚悟をもって説き伏せ、法案可決にこぎ着けた。

野中の英断に心打たれた元京都府教育長をはじめ、感謝の手紙が届いたという。
中でも、悲劇の舞台・世羅高校の後任校長からのメッセージが印象に残る。

「野中先生が国旗国歌法案を通してくださったおかげで、今は静かに教育に励むことができるようになりました」

もちろん、野中もこれで積年の問題が解決したとは思っていない。
だが、「少しでも、戦後の課題を後世の憂いとして持ち越すことを避ける一助になれば…」という切なる願いを込めたのである。


忘れ得ぬ想い

官房長官時代、全日空のジャンボ機をハイジャックする事件が起こった。
機長は勇敢にも犯人の要求を退け、その結果、凶刃に倒れ帰らぬ人となる。
もし、乗客を危険にさらしかねない無謀な命令に従い、機体が墜落していたら…。
500人以上の乗客のみならず、墜落の場所によっては犠牲者の数はさらに増えていたはずだ。

野中は命を懸けて乗客を守った機長に感銘を受けるとともに、深く感謝した。
官房長官を辞職した後、ハイジャック事件で亡くなった長島機長の一周忌に弔問し、遺影に手を合わせたのがその現れである。

また、野中は政敵に対して非常に厳しかったが、自分に対してもことのほか厳しかった。
そんな野中は1年で3日、誰にも会わない日があった。
野中が自治大臣兼国家公安委員長として任務にあたった阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、そしてJR福知山線脱線事故が起きた日である。

野中に残る、救えなかった命への悔恨。
その想いを抱え、生涯その3日間はひとり御霊を弔った。

党派を超えた交流

野中広務には根幹をなす政治哲学があった。
ひとつは反戦である。
そして、もうひとつが“政治は弱者のためにある”という信念だった。
そんな野中は、弱者のために汗を流す同志と党派を超えて絆を深めていく。

野中は、社民党の衆議院議員から後に宝塚市長となる中川智子と親交を持つに至った。
このきっかけは、野中が橋本龍太郎内閣で幹事長代理を務めていた頃に遡る。

1997年、沖縄県で米軍基地の使用を継続するため、橋本内閣は「米軍用地特別措置法改正案」を提出する。
改正案の特別委員長を務めた野中は、法案の委員会通過後に本会議で報告を行う。
そして、最後に声と体を震わせ、紅潮した面持ちでこう締めた。

「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議がどうぞ大政翼賛会のような形にならぬよう、若い皆さんにお願いをして私の報告を終わります」

この発言は、沖縄での終生忘れ得ぬ出来事に由来する。
それは園部町長時代、初めて占領下の沖縄を訪問したときだった。
タクシーを走らせていると、突然運転手が車を止める。
そして、嗚咽を漏らしながら泣き叫んだ。

「お客さん、あの田んぼの畦道で私の妹は殺されました。アメリカ軍じゃないんです」

この話を聞いた瞬間、野中は理解した。
アメリカ軍じゃないということは…日本軍によるものだと…。

その時の記憶があればこそ、上記の想いを言わずにはいられなかったのである。

そして、国会で野中の魂の訴えを聞き、深い感銘を受けたのが社民党議員・中川智子だったのだ。
矢も盾もたまらず野中の事務所に走り、虚心坦懐に感動を伝える。

「今日の野中さんの発言に涙が出た。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった」

すると、その夜、中川にサプライズが待っていた。
議員宿舎に戻ると郵便受けに、ケータイの連絡先が書かれたメモが入っているではないか!

しかも、そこには思いもよらない言葉が綴られていた。

「これから、困ったことがあったら何でも相談しなさい」

以来、野中はハンセン病や薬害ヤコブ病の問題に奔走する中川に、党派を超えて力を貸した。

恐縮する中川に、野中広務は語りかける。

「君は票にもお金にもならないことに必死で取り組んでいる。本来政治家はそうあるべきだ。政治の光が当たらなければならない人を助ける議員が少なすぎる」

そして、野中は続けた。

「君を手伝うことは、政治家として大事な仕事だと思っている」

また、社民党を経て現在は立憲民主党に所属する阿部知子とも、政界を引退した後も交流を持ち続けた。
それは、阿部知子が戦没者の遺骨収集に粉骨砕身して取り組んでいたからである。

野中は京都から阿部の地元・神奈川まで出向き、何度も反戦をテーマに講演を行っている。

野中は言う。

「私もまだまだ、日本の将来を担う子どもたちに戦争の惨禍が及ばないよう、命を懸けてやっていく」

そんな野中の政治を阿部は総括する。

「野中さんの政治の根底には、人の命と生活を大切にするヒューマニズムがある。人間の命の営みは、国の片隅や小さな生活の中にあることを知っていた。そこで、差別される人の痛み、貧しき者の苦しみ、マイノリティの悲しみを理解し、そうした悲哀を深く汲みとろうとしていました」

自らが被差別部落出身者の野中は、誰よりもこうした痛みと悲哀を味わってきた。
だからこそ、弱者へのあたたかい眼差しを忘れることなく、生涯を全うできたのだろう。

まとめ

2003年10月、野中広務は政界を引退する。
同じ地方政治からの叩き上げとして国政に進出し、肝胆相照らす仲だった青木幹夫らが権力になびく中、野中は保守本流を守るため、小泉純一郎に抵抗勢力のレッテルを貼られながらも最後まで信念を貫いた

そして、国民が熱狂した小泉劇場を尻目に、野中は呟いた。

「こんな時代に議員バッジを付けていたら、後世に笑われる。政治家として恥ずかしい」

そんな野中に引退撤回を進言したのが、“カミソリ後藤田”と称された後藤田正晴である。
すでに政界を引退していた後藤田だが、昨今の小泉政権のあり方に危機感を覚えていたからだ。

「同じ戦争経験者として私同様、あなたも今の政権運営を危惧しているはずだ。ブレーキ役になれるのは君しかいない」

また、共に問題解決に尽力したハンセン病訴訟団体からも、引退慰留の要請書が寄せられた。

今ではとんと見られぬ気骨の政治家・後藤田正晴と、長きにわたり差別に苦しんだ被害者という、全く異質な存在から引退を惜しまれる野中広務。
この事実こそ、野中広務という政治家の本質を物語っているように思うのだ。

戦争を生きながらえた命を平和と反戦、そして弱者のために捧げた“信念の政治家”野中広務。
こんな時代なればこそ、その不在が残念でならない。

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