みなさんは、野中広務という政治家を覚えているだろうか。
自民党で官房長官や幹事長の要職を歴任し、その剛腕から「影の総理」とまで言われた保守派の大物である。
旧田中派の流れをくむ経世会に所属し、ときの政権下で陰に日向に権力を行使した。
当時まだ若かった私は、野中が日本の政界を牛耳る旧田中派所属ということもあり、特に確たる根拠もなく悪徳政治家のひとりに過ぎないとみなしていた。
「政界の狙撃手」というあだ名も、強面のイメージに拍車をかけていた。
しかし、ときに見せる非情なまでの政治手法だけでなく、弱者へのあたたかい眼差しを知るようになり、徐々に野中へのイメージが変わっていく。
権力の中枢まで駆け上がった近年の“政治屋”たちにあって、野中広務は紛れもなく“信念の政治家”だった。
混迷を増す日本社会において、政治不信に歯止めがかからない令和の世を見るにつけ、私は改めて野中広務について掘り下げたくなった。
だが、この希代の政治家を簡潔にまとめるには、未熟な私ではあまりにも力不足である。
ということで、前編では出自と反戦への想いを中心に、後編では弱者へのあたたかい眼差しが心に残る“人間”野中広務を紹介していこうと思う。
「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理 (講談社現代新書)
野中広務とは
野中広務は1925年10月20日に京都府園部町で生を受ける。
第二次世界大戦で陸軍に招集され、その時の経験が後の政治家・野中広務の羅針盤となった。
復員後は召集前に勤めていた大阪鉄道局に復職し、25歳の若さで地方政治に活躍の舞台を移す。
生まれ故郷の園部町で町議会議員と町長を歴任した後、京都府議会議員と京都府副知事を経て、1983年に衆議院議員として初当選する。
そして、最大派閥“経世会”に所属すると、官房長官や党幹事長の要職を務め、自民党の柱石として活躍した。
あふれる人間味
国会議員としては57歳で初当選と遅咲きの野中だが、地方政治で培った経験と持ち前のバイタリティーで頭角を現していく。
党内最大派閥“経世会”の重鎮・金丸信と竹下登から信頼を得ていたことも大きかったに違いない。
そんな野中の下には様々な情報が集まった。
そして、その情報目当てに、多くの政治記者たちが馳せ参じたのである。
野中は政敵に対しては容赦がない。
非情なる剛腕といわれる所以である。
だが、“敵”以外の人々には丁寧に接する常識人でもあった。
したがって、記者だけでなく、官僚・財界人など数多の人々に慕われた。
これは、ある若い政治記者の話である。
初めて野中の担当となったこともあり、事務所に挨拶に赴いた。
玄関前で「失礼します」と緊張しながら呼びかけると、恰幅が良く強面の野中がのそりと出てきた。
最初は面倒そうな雰囲気であったが、名刺を出しながら担当になった挨拶をすると、「ああ、そうですか。こちらこそよろしくお願いします。どうぞ、中に入って」と促した。
そして、部屋に招き入れると、ビールでもてなしてくれた。
野中はどんな駆け出し記者にも同じように対応し、決して偉ぶることがなかった。
大物と呼ばれる“先生”の中には、新米記者など全く相手にしない者も少なくない。
挨拶もろくにさせてもらえず、話を聞くのは半年あるいは1年がかりということもざらである。
そんなところにも、“叩き上げの苦労人”野中広務の人間味が垣間見える。
真摯に記者に対応し続ける野中は、毎日のように夜討ち朝駆けに付き合った。
そして、口癖のように言った。
「君らも僕から情報をもらおうとするだろうが、僕も君らから様々な情報をもらっている。だが、これだけは忘れないでいて欲しい。君らの向こうには、たくさんの国民がいることを」
こんな野中が、記者たちから信頼されない道理はない。
出自と父の背中
野中の父は自作農を営む傍らで、戦災孤児を自宅に呼んで面倒を見ていた。
また、当時苦しい生活を送っていた朝鮮人女性を子守に雇うなど、一貫して社会的弱者を支援する人生を送った。
たとえ、自分たちが辛く苦しい思いをしても…という覚悟をもって…。
そんな親の背中を見て育った影響が、野中に色濃く受け継がれたのだろう。
だが、その出自もまた野中広務の人生に影響を与えた。
野中は復員後、以前勤めていた大阪鉄道局に復職すると、異例ともいえる出世を果たした。
如才ない野中の辣腕は、政界以外でも発揮されたのである。
だが、どこの世界でも嫉妬は付き物である。
同僚や先輩の中には公然と不平不満の態度を表す者もおり、不服審査を要求した先輩もいたという。
それでも上司の信任が揺るがない野中は、同郷の後輩を入職させたいと懇願した。
それが認められ、野中は家族のように後輩の世話をする。
仕事の面倒を見るだけでなく、夜間の大学にも通わせる手筈を整え、食事の支度も進んで行った。
しかし、恐ろしい裏切りが野中を待ち構えていたのである。
ある日、壁越しに後輩の声が聞こえてきた。
「野中さんは大阪では飛ぶ鳥を落とす勢いだが、地元に帰ったら部落の人や」
野中の出世を面白くない連中と一緒になって、陰口を叩く後輩に涙が出た。
そして、野中は退職を決意する。
思いとどまるように説得する上司に、野中は言った。
「努力すれば、報われると思っていました。でも…駄目でした。自分が手塩にかけた人間がああいうことを言うとは…この社会では、永久に報われない。私は捨て石でいい。頑張れば信頼してもらえるということを証明するため、政治の舞台に立ち世の中を変えていきます」
だが、野中は、差別発言をした者をクビにすると言ってくれた上司を止めた。
かえって、差別が酷くなると思ったからだ。
そして、両親の教えもあったのだろう。
「どんなに理不尽なことがあっても、絶対に相手を責めてはいけない。こっちから、あれこれ言っては駄目だ」という言葉が、野中の心に沁みついていたのである。
こうして、野中広務は25歳で政治の世界を志すのであった。
命の恩人
「今、この命があるのは大西さんのおかげです」
野中は戦時中、軍国青年であった。
ゆえに、日本が敗戦したことを知り、「潔く死のう」と仲間と共に自決することを決意した。
間一髪、その場に駆け付けた部隊の上官・大西清美少尉に止められた。
いや、正確には「貴様ら!何をしておるか!」と怒鳴られ、殴られたのである。
明治天皇が定めた「軍人勅諭」のほかに、その戦場版ともいわれる「戦陣訓」なるものを現場の兵隊たちは携えていた。
この「戦陣訓」の教えにより玉砕覚悟の特攻や集団自決など、人命軽視の風潮が高まっていった。
これに憤りを覚えていたのが、件の大西少尉だったのである。
「なぜ負けが分かっている戦争で、前途ある若者をあんなにも犠牲にしなければならかったのか…」と。
だからこそ、大西少尉は自決を試みる野中たちを許せなかったのだ。
そして、少しずつ平静を取り戻した若者たちに諭した。
「命長らえたら、この国のために働きなさい。この国の再建のために命をかけなさい」
大西少尉のおかげで無事復員した野中が、恩師との再会を果たしたのは戦後60年経ってからである。
政界引退後、とあるテレビ番組に出演した際に大西少尉の思い出を話した。
それがきっかけとなり、ずっと捜していた少尉の行方が分かったのだ。
だが、大西少尉はすでに鬼籍に入っていた。
野中は、恩師の御魂が眠る愛媛県四国中央市に向かった。
遺影に手を合わせると、生前に再会できなかった無念が胸中に広がっていく。
出迎えてくれた家族に、復員後の話を聞くことができた。
面倒見が良い大西少尉は保護司として、恵まれない家庭の子どもや問題を抱えた青少年の面倒を見続けたという。
私は大西清美少尉の人生に思いを馳せるうち、デジャヴのような感覚に襲われる。
それは、大西少尉の生き方が、野中広務と彼の父親と同じだからである。
野中は少尉の家族と一緒に墓前に参り、手を合わせながら恩師の御魂に語りかけた。
「あなたのお陰で、ここまで生きることができました。戦争に生き残ったことに恥じぬ生き方をしていきます」
その年、齢80を迎える野中広務、新緑が眩しい春のことだった。
政治理念
前述したように、野中は被差別部落出身者としての辛い経験から政治を志すようになった。
それは差別に苦しむ人のため、社会的弱者のためにこそ、政治はあるのだという信念だった。
そんな野中は、同和利権の甘い汁を吸おうとする者にも批判の矛先を向け対峙した。
差別を盾に特権をむさぼる逆差別こそ、さらなる差別を生み出すことを知っていたからだ。
そして、野中にとって政治生命を賭して取り組んできたのが、反戦と平和の実現だった。
実は、後に軍国青年となる野中も、園部中学時代は軍事訓練に明け暮れる毎日に疑問を覚えていた。
学生の本分は勉学だろうと!
そんな思いがほとばしり、弁論大会でその旨主張する。
すると、配属将校と教員に怒声を浴びながら、演壇から引きずり降ろされた。
その後、激しい叱責を受けた野中は戦時教育によって洗脳され、軍国主義に染まっていく。
それは野中だけでなく、当時の国民のほとんどに当てはまった。
当時の空気感を知る野中は、日本国民の一色に染まっていく特徴を危惧していた。
こうした国民性は、現代に生きる我々も心当たりがあるのではないか。
何かきっかけがあると、雪崩のように一方向へと突き進んでいく日本の精神風土を…。
野中広務はかく語る。
「あの戦争に生き残り、生かされた私の使命は二度と戦争を起こさせないことだ」
先の戦争で被った日本国民の多大なる犠牲と決して消えぬ傷跡、そして自身が軍隊生活で体験した理不尽さと残酷さ…。
野中が知る戦争は、特攻隊員の悲しみであり、上官に殴られる痛みであり、傷ついた人の苦しみであり、焦土と化した故郷を見た時の身を切られるような辛さであった。
それは、経験した者にしか分からぬ皮膚感覚の痛みである。
だからこそ、野中にとって戦争は理屈ではなく、感情として絶対に起こってはならないものなのだ。
こうした想いを胸に、野中広務は生涯反戦を貫いた。