プライドのリングで、向かうところ敵なしの快進撃を続けるエメリヤーエンコ・ヒョードル。
その様は、まさに現代に甦った最後の皇帝“ロシアン・ラストエンペラー”と呼ぶべきものであった。
そんな人類の頂に立つ“氷の皇帝”の前に、満を持して最強の挑戦者が名乗りをあげる。
“最強の挑戦者”ミルコ・クロコップ
最強の挑戦者にして、エメリヤーエンコ・ヒョードルの最後の刺客。
その選手の名は立ち技のK-1トップファイターながら、総合格闘技でも頭角を現したミルコ・クロコップであった。
クロアチアの現役警察官でもある彼はK-1出身であるため、強烈な打撃が持ち味であり、プライドの戦いにおける技術体系を変えたともいわれていた。
ノゲイラとの再戦も制したヒョードルにとって、もはや自らを脅かす存在はミルコ唯一人の様相を呈していた。
戦いを前に意気込みを語る両者。
ミルコは「ヒョードルを倒し、プライドのチャンピオンベルトを腰に巻くことが人生の悲願だ。この戦いを亡き父に捧げる」と悲壮な決意を漂わせていた。
一方のヒョードルは「プライド王者の称号は人生の全てではない。あくまでも人生の中で数ある大切なものの一つに過ぎない」
その言葉はミルコと正反対であり、冷静沈着な“氷の皇帝”らしい。
また、とある格闘通が語った分析が興味深い。
「ヒョードルは前後左右、360度全てに死角が無い。たとえるならば、どこにも偏りがない円を感じさせる。かたや、ミルコは前方180度に圧倒的な強さを誇る。特に、左ハイキックの射程圏内である右前方90度のエリアは図抜けている」
私は、まさに言い得て妙だと膝を打つ。
こうして、プライド史上に残るビッグファイトへの期待の高まりが醸成されていくのであった。
最強王者決定戦
2005年8月28日、異常な盛り上がりの中、さいたまスーパーアリーナで戦いの火蓋が落とされた。
立って良し、寝て良しのヒョードルが、どういうプランで戦うのかが注目される。
だが、“ロシアン・ラストエンペラー”は最初からグラウンドに持ち込むようなことはせず、あくまでも己のスタイルでミルコを迎え撃つ。
殺気漲る緊張感の中、ジリジリと前に出るヒョードルがプレッシャーをかけていく。
打撃のスペシャリストをも後退させる“氷の皇帝”の威圧感。
もちろん、ミルコも一瞬の隙を逃さない鋭い眼光を滾らせ、いつでも“伝家の宝刀”左ハイキックを抜刀すべく虎視眈々と狙っている。
先制攻撃を仕掛けたのはヒョードルだった。
素早く踏み込み右ストレートを放つも、空を切る。
おそらくクリーンヒットしたら一撃で試合が終わるであろう、恐ろしいまでのパンチの切れ味。
いきなり、会場がどよめいた。
今度は、ミルコの左ミドルがヒョードルの脇腹を襲う。
両者とも100㎏を超えているというのに、そのスピードはライトヘビー、いやミドル級をも凌駕する。
静から動へと転じる一瞬の素早さは、素人の肉眼では捉えきるのが難しい。
前へ出て拳を振りかざすヒョードルに対して、紙一重でかわしカウンターを狙うミルコ。
痺れるような緊張感が会場を支配する。
徐々に、ミルコの左のパンチがヒョードルの顔を掠めるようになる。
その刹那、ミルコの強烈な左ミドルがヒョードルのボディにめり込むと、すぐさまヒョードルが左ストレートをカウンターで打ち返す。
一瞬も目が離せない、これぞ人類最強決定戦。
お互い、ベストコンディションに仕上がっていることが窺える。
ヒョードルの連打がミルコをぐらつかせるが、何とか距離を取るミルコ。
すると、次の瞬間、“伝家の宝刀”左ハイキックが放たれた。
しかし、ヒョードルは間一髪かわすと、逆にミルコを押し倒す。
だが、勢い余ったヒョードルは、リングの下に落ちてしまう。
何という攻防なのだろうか。
究極ともいえる打撃戦を、日本で見られる幸運を噛みしめずにはいられない。
中盤に入り、ミルコの左ストレートがヒョードルの顔面を捉えると、パンチのラッシュを畳みかける。
ヒョードルはロープ際まで追い込まれるも、追いすがるミルコに強烈無比な右のロシアンフックを振り回す。
空を切るものの、その迫力と風圧でミルコがよろめいた。
まさに“ソドムとゴモラの雷”を思わせるヒョードルの“氷の拳”。
ところが、ミルコはすぐに態勢を整えると、必殺の左ハイキックを一閃させるではないか。
このキックは惜しくも、ヒョードルの頭をかすっただけに終わった。
なおも、左ストレートから右ストレートの連打を放つミルコをかわし、ヒョードルはテイクダウンに成功する。
この試合で初めて、ミルコがリングに仰向けになった瞬間であった。
中腰になり、パウンドの態勢に入るヒョードル。
そして、ついにノゲイラを破壊した“氷の拳”が降り注ぐ。
絶体絶命、このポジションだけは避けたかったミルコだが、巧みに足を使って防御し“氷の拳”の威力を半減させる。
その後、ヒョードルの鼻と額からの出血により、一端試合が止まった。
それにしても、ヒョードルの攻守の切り替えの早さは目を見張る。
ミルコの左ストレートを被弾してダメージを負い、パンチの連打に襲われ、普通ならば一気に倒されてもおかしくない。
それを、右のダイナマイトパンチでミルコのバランスを崩し、左ハイもギリギリ見切ると相手を倒し、いつの間にか優利な態勢を築いてしまったのだ
だが、ヒョードルに上になられたミルコも、さすがである。
ガードポジションのディフエンス技術を見て、なぜミルコ・クロコップが総合格闘技でも頂点を狙えるほどの躍進を遂げたかのかが理解できた。
あの“ロシアン・ラストエンペラー”のパウンドを防いでいるのだから…。
同じ態勢から試合が再開されると、“氷の皇帝”は巧みなボディバランスを駆使し、ロシアンフックを振りかざす。
間一髪、鬼の反射神経でかわすミルコ。
さらに、飛び込みざまのパウンドがミルコを襲う。
ミルコが必死に防御し膠着状態になると、中腰の態勢に移行し、“氷の拳”を振り下ろすヒョードル。
戦慄が走るほどのパンチのキレ…。
一発当たれば、ミルコの意識は刈り取られるに違いない。
パンチの破壊力もさることながら、ミルコの両足に胴体をフックされ、腕も抑えられながら中腰へと移行できる足腰の強さは驚異的だ。
一方、何とか立ち上がりたいミルコだが、ヒョードルのプレッシャーにままならない。
それどころか、防戦一方のミルコは少しずつスタミナを奪われていく。
第2ラウンドに入ると、ヒョードルは右ミドルキックからパンチの連打で圧倒する。
そして、ギリギリかわされたが、滅多に見せない右ハイキックでミルコを脅かした。
打撃戦の合間に、ヒョードルは組み付き投げ倒そうとするも、何とかこらえるミルコ。
並の選手ならば、オリンピックも狙えるほどの柔道家であった、ヒョードルの投げを防ぐことなどできはしない。
ミルコの腰の強さも相当である。
だが、ミルコはスタミナが切れ始め、肩で息をし始める。
再び組み合う両者。
苦しそうな表情のミルコを、一瞬の足技で転がすヒョードル。
またもや、ヒョードルがパウンドの態勢に入った。
巧みなディフエンスで防ぐミルコにパスガードを試みるも、あと一歩のところで防がれる。
もはや、体力はとうの昔に尽き果てているだろうミルコの執念以外、何ものでもない。
まさしく、「人生をかけてリングに上がる」というミルコの言葉の重さを感じずにはいられなかった。
しかし、完全にグロッキーになったミルコは、最終第3ラウンドも防戦一方となってしまう。
判定の結果は、文句なく“氷の皇帝”エメリヤーエンコ・ヒョードルの勝利となった。
試合を振り返ると、第1ラウンドは格闘技史上に残る濃密な打撃戦であった。
あるいは、ボクシングのハグラーVSハーンズをも越える、緊張感漲るラウンドだったかもしれない。
第2ラウンド以降は、ヒョードルが圧倒する。
試合後、ミルコは完敗を認める。
「打撃戦でも、ヒョードルに打ち負けた」
それにしても、私は“氷の皇帝”の戦い方に深い感銘を受けた。
プライドきってのストライカーであるミルコを向こうに回して、逃げずに打撃戦を挑んだのである。
最初から組み付いて、サブミッションを狙う手段もあろうに、一切そんなそぶりを見せない。
それどころか、リスクを冒し、常に自分から前に出て攻撃を仕掛けていた。
その心の強さと勇気に敬意を表さずにいられない。
まとめ
ヒョードルはウクライナで生を受けるも、幼少期にロシアのスタールイ・オスコルに移住する。
以来、ヒョードルにとってロシアこそ祖国であり、スタールイ・オスコルこそ故郷であった。
その故郷で育ち、弛まぬ努力と鍛錬によりプライドのみならず、世界の総合格闘技の頂点を極めた“氷の皇帝”は、いつしか「スタールイ・オスコルの誇り」と呼ばれるようになる。
だが、ヒョードルはプライドのチャンピオンになった後も故郷に居を構え、国産車に乗る日々を送る。
成功を収めると生活が一変する者が多い中、ロシアの英雄はあくまでも市井の人々と共に生き、普通の人であり続けた。
ひとたびリングを離れると、はにかみ屋で穏やかな微笑みを絶やさない彼らしいエピソードである。
また、“格闘熱血親父”マーク・コールマンとの対戦では、「尊敬するコールマンを傷つけたくない」との公約通り、“氷の拳”を使わず芸術的な切り返しでタップさせもした。
凍てつくような瞳の奥に隠された“氷の皇帝”の優しさを感じずにはいられない。
今もなお、総合格闘技史上最強の呼び声高きエメリヤーエンコ・ヒョードル。
その強さのみならず、自らを律し、ライバルに敬意を払い、常に謙虚な振る舞いに終始した姿が印象に残る。
だからこそ、世界の格闘家にとって、ヒョードルは永遠の憧れなのであろう。
“氷の皇帝”エメリヤーエンコ・ヒョードルこそ、まさしく“ロシアン・ラストエンペラー”と呼ぶにふさわしい人類最強の男だった。